幸者堂
亡国の王女

第1章 ブタルテ連邦アスタルテ市にて · 第11話

ドロシア・サンクトス

 魔導歴1821年9月10日。この日のアスタルテは大雨だった。  この日はマルシュカが午前中から遊びにきてくれた。 「おはよう、グリム。これ、イリニアへ」   マルシュカは麻袋に黒パンやジャムといったイリニアへの食料も持ってきてくれた。    イリニアへの食糧を僕一人で負担するのは経済的にも、また党の監視の目という点でも厳しい。もしマルシュカの献身やマーガレット婦人の気遣いがなければ、とっくに王女は飢えていたかもしれない。  僕らは軽く挨拶をすると彼女が住まう屋根裏部屋へと向かう。 「おはよう、イリニア」 「おはよう、グリム。それからマルシュカ」 今日のイリニアは準備を済ませていた。王女らしく良い姿勢でベッドの上に座っていた。 「今日は酷い雨だったわ。それに寒かった」 「窓が小さい屋根裏部屋だが、ここにいても外の雨音はよく聞こえた。こんな日によくきてくれた」 イリニアはそう言うと茶葉を取り出し、アルコールランプでお湯を沸かし、そして僕ら3人分のカップに注いでくれた。 「ありがとう、イリニア」 マルシュカは両手でカップを包み込んで、フーフーと息を吹きかけ、それからゆっくりと啜った。 「おいしいわ」 「喜んでもらえてなによりだ」 ---  ランプがぼんやりと部屋を明るく照らす。マルシュカの豊かな表情、イリニアの小さくも揺れ動く仕草。二人は会話に花を咲かせる。  ふと屋根裏部屋に続く梯子を登る音が聞こえて、 「しっ!」 と僕は二人を制止して床に耳を当てた。 「——俺だ、カットーフェンだ。開けてくれ」 それは聞き慣れた声だった。僕はほっと息を吐いて、扉を開けた。 「ブーツ、持ってきましたぜ」 彼は大事そうに麻袋を抱えて入ってきた。 「え、ちょっと。びしょびしょじゃないの。私のでよければ使って」 マルシュカは自分の鞄から手拭いを取り出すと、彼に手渡した。 「ありがとう、お嬢さん。ところで君がマルシュカ・ドルマン嬢かい?」 「え、ええ。そうだけれど」 「お初にお目にかかります。俺はカットーフェン・ブロンドヘンといいます。あなたのことはグリムから耳にしております」 カットーフェンはまるで舞踏会で貴族がダンスに誘う時のように、うやうやしくお辞儀をした。 「何を聞かされていたの……?」 「あなたがとびきり可愛いグリムのガールフレンドだって」 「……っ!」 声にもならないような、悲鳴のような音がマルシュカの喉から鳴った。 「ど、どういうこと?」 顔を赤くして抗議するような目線を僕によこしてきた。 「こいつの悪い癖だ、冗談だよ、マルシュカ。おい、君からも言えって」 「えへへ、すんません。ちょっとからかってみたくて」 「相変わらず、君ってやつは……」 僕が呆れていると、イリニアはくすりと笑った。 「仲が良いのだな、貴様らは。——それで、お前が持ってきたその荷物が靴か?」 「そうです、どうぞ」  カットーフェンは約束通り、ピッタリ一週間で靴を作り上げたようだ。大雨にもかかわらず、彼はわざわざマーガレット荘へやってきて、イリニアに靴を届けてくれたのだ。 「見事なブーツだ」 そのブーツは焦茶色の上質な革で作られ、よく磨かれてつま先には光沢があった。ヒールが低く歩きやすそうだ。 「ささ、履いてみて」 カットーフェンは鼻息を荒くしてイリニアの足元にブーツを置いた。 「ふむ、では早速履いてみよう」 イリニアはボロボロのスリッパを脱いで、素足をブーツの中へ滑らせる。 「きつくはないですかい?」 「ああ、問題ない」 「じゃあ、紐を結んで———よしできた。それから歩いてみてください」  イリニアはベッドから立ち上がって窓際まで歩く。そしてくるりと舞うように半周すると、またこちらに戻ってくる。 「どうです?」 「とても歩きやすいよ、ありがとう。カットーフェン殿」 「いいんですよ。礼ならここのグリムに」 と彼は僕の肩に手を当てた。それから耳打ちした。 「代金はあとで頼むぜ。親方にツケてもらっちまった」 「わかった。色をつけて渡すよ」  イリニアは靴を改めてまじまじと見つめ、それから革を撫でた。 「気に入ってくれましたか?」 「とても。嬉しいよ、こんなに上質な靴を、まさか連邦で手にいれることになるとは予想もしなかった」 イリニアはそう言うと、目をうるうるとさせて微笑んだ。 「カットーフェン、一体どうやってこんなに早く作ったんだ?」 「なあに、ひたすらな頑張りさ」 「早速だが、君にはお礼をしなくっちゃね。僕の部屋まで来ておくれ」 「おうよ」 「マルシュカとイリニアはしばらく待ってておくれ」  僕らは階段を降りて、僕の部屋へ入った。 --- 「いくらだった?」 「180ダヴェーリエくらいかな」 「じゃあ200渡すよ」 僕はへそくりから2枚の紙幣を抜き取って彼に手渡した。 「へぇ、結構貯めてるんだな」 カットーフェンは缶を覗き込むと、ニヤリと笑った。 「まあね。それでも最近は何かと入り用が多くて困るよ」 「そうだよな、余分に一人分養わないといかんしな。なあ、グリム。俺も少しは負担をしようか?」 「いやいいんだ。君はもう軍に復帰しなきゃいかん。これ以上巻き込むわけにはいかないよ」 「そうかい」  カットーフェンは紙幣を自分の財布にしまうと、大事そうに鞄にしまった。 「茶でも淹れようか?」 「俺は野郎のいれるお茶じゃなくて、イリニアさんのお茶が飲みてえよ」 カットーフェンはイタズラげに微笑んで言った。 「そうかい、じゃあ上に戻ろうか」 僕は呆れたように笑う。 ——パリン!……どしん! 雨粒が窓に打ちつける今日であっても聞こえるほど、何か大きな物音がした。しかしそれっきり。  雨音のみが耳に入る。 「……下からだ。婦人が本棚でも倒したのだろうか?」 「いや、それにしては静かすぎる」 「同感だ」 僕は本棚の裏に隠してあった拳銃を取り出して、カットーフェンに渡す。 「お前のは?」 「僕はナイフでいいよ」 手近にあった果物ナイフを手に取る。  部屋を出ると、鼻にツンとする臭いがした。 「——血だな」 カットーフェンは銃の安全装置を解除し、薬室に銃弾を装填する。 「俺が先行する。お前は背後を頼む」  僕らはゆっくりと音を立てないように階段を下る。1階は静まりかえっている。  階段を降りると正面は出入り口。右手は壁で、真左に婦人の部屋。背後に共用キッチンなどのスペースがある。  カットーフェンはハンドサインで、 『まずは左。部屋から確認していこう』 と示す。僕はそれに頷く。  カットーフェンが廊下に銃を向け、僕が婦人の部屋のドアに張り付く。中から音はしない。 ——ドカン! とドアを蹴破ると、部屋の中心に血溜まりを作って婦人がうつ伏せで倒れていた。窓を見れば内側に向かって割れて飛散しており、泥のついた足跡が部屋の中に続いている。出て行った形跡はない。 「グリム! 危ない!」 僕は突然後ろから突き飛ばされて、飛散したガラスに手をつく。  振り返るとどこにでもいそうな町娘の格好をした、23,4歳くらいの栗色の髪の女がカットーフェンの腹にナイフを突き刺している。油断した。窓ガラスに気を取られている間に、奥の寝室から出てきたようだ。 「——チッ」 女はカットーフェンを戸棚に向かって蹴り飛ばした。背中を打ち付け、床にへたり込んだカットーフェンの、腹を両手で押さえながらヒューヒューと苦しげな呼吸音が響く。肺まで傷は達したらしく血を吐いている。 「戦闘は望まないのだけれど……」  雷が落ちる。その明かりで一瞬、女の琥珀色の瞳が冷たく光ったように見えた。僕はナイフを構える。手が震える。だが不思議とガラスで切った手は痛まない。  女は駆け出した。右手のナイフに意識がいく。絶対に避けて、反撃で仕留めてやる!  しかし次には脇腹に蹴りを受けていた。僕は体を必死に立て直して間合いを取る。 「つ、強いな。あんた、何者だ?」 女は僕の言葉を無視して、畳み掛けるように間合いを埋める。早い。ナイフが吸い寄せられるように僕の左首に向かう。  僕は咄嗟に手に持ったナイフに力を込め、彼女のナイフの軌跡に向かって思い切り打ち込んだ。すると彼女の持つ刃先が二つに分かれ、かろうじて僕は浅い切り傷で済んだ。 「魔剣術……」 女は驚いたような顔をして、それから自分の手にある折れたナイフを見つめた。イリニアから教わった魔剣術を練習してきてよかったと思った。見れば僕のナイフは青白くぼんやりと光っていた。  これならいける、なんとかなるかもしれない。さっさと鎮圧してカットーフェンを病院へ運ばないと!  そう思った矢先、廊下からもう一人女が音もなく入ってきた。 「またお会いしましたね」 「ど、ドロシア・サンクトス……」 それは10日ほど前、喫茶店で見かけた女だった。忘れもしない。灰色の髪と青いインナーカラー。耳元に輝くピアス。そして何より、目立つ修道服。 「覚えてくださって嬉しいです。……ピエリス、あなたでは魔剣士には敵わないでしょう。上に行って対象の回収を」 「……了解」 栗色の髪の女はそう言うと、じろりと僕を睨んで、そして急ぎ足で上階へ向かった。 「待て!」 「あなたのお相手はワタクシが」 彼女はスカートをめくって白い太腿を露わにする。革のレッグホルスターが巻き付けられている。そこにはスティレットという種類の、細針のように研ぎ澄まされた剣が2本収められていて、躊躇いない慣れた手つきで取り出す。 「前回はお時間がなかったものですから、今回は一緒に踊ってくださいまし?」 スティレットの先に魔力が集まり、鋭く光り始める。 「こ、断る!」  ドロシアは僕のことをじっとりと見つめ、頬を紅潮させる。 「スンスン……あなたはどこか芳醇な香りがします。とても興味深い……」 「僕のじゃなくて、血の臭いじゃないか?」 「いいえ、あなたです。殺すのはとても惜しいのですが、仕方ありませんね」 彼女は2本の剣を構える。 「おいおい、修道女が殺人ですかい?」 「仕事ですから」 「最悪だね」  僕もナイフを構える。勝てる気がしないが、やるしかない。 ——コプコプというカットーフェンの気泡を含んだ血の音が、耳を打った。