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僕はナイフに魔力を込める。そして床を蹴って間合いを詰める。
「いい動きです……!」
ドロシアは子供の自転車練習に付き合うように、スティレットで刃先を逸らす。
「胴体がガラ空きですよ」
彼女の刃先が脇腹を掠める。熱い感触がした。
「チクショウ!」
僕はヤケクソになってナイフを横に振った。ドロシアはひらりとかわして、おまけといったように僕の胸部を蹴り飛ばした。
僕は這いつくばる。右にはカットーフェンが、左にはピクリとも動かない婦人が倒れているのが見える。そして真ん中には両手に剣を持った修道女。
「あっけないですね。思ったより大したことない、所詮は魔人。古代文明の捨て駒ですか」
彼女は見下すように僕を見つめながらゆっくりと近づくと、目の前でしゃがんで、それから僕の髪の毛を掴んで持ち上げた。
「さてと、ピエリスが回収を終えるまで遊びますか」
——ブスリ。
「うぐ……っ!?」
彼女は僕の左手を突き刺した。血が溢れだし、激しい痛みで悶えそうになる僕を、ドロシアが髪を引っ張って押さえつける。
「ゆっくり味わってください、痛みを」
「ど、どうしてこんなことをするんだ?」
「どうしてって……楽しいからに決まってるじゃないですか?」
ドロシアがニヤリと笑う。
——パン!
突然銃声が鳴り響き、ドロシアの左腕から血が吹き出し、よろける。
「……良い、気味だ………!」
カットーフェンが撃ったのだ。彼が作ってくれたチャンスを逃すわけにはいかない。僕は彼女の落としたスティレットを拾い上げると、目一杯力を込めて突き刺そうとする。
「雑種が!」
そう叫ぶドロシアの瞳に光が入った。そう思った途端、彼女はひらりと体を横向きに、宙へむかってかわし、僕の顔に回し蹴りを喰らわせる。僕はその勢いのままカットーフェンの上に叩きつけられた。
「ケッ! いい眼しやがる。僕はあんたのそういう面が見たかった」
僕は切った口から出る血を吐き出して、目一杯バカにするように嘲笑した。
ドロシアはピクピクと瞼を痙攣させて、僕とカットーフェンを見下ろす。
「——殺す」
彼女が腕を振り上げた途端。
「待て!」
廊下からよく通る叫び声がした。ドロシアはピタリと止まって、それから声の主に向かって
「仰せのままに」
と膝をついた。
見ればそこにはイリニアが立っていた。後ろにはピエリスと呼ばれていた栗色のボブヘアもいる。
「グリム!」
二人の間を抜けて、マルシュカが駆け寄ってきた。
「僕は大丈夫だ、それより二人を」
僕はよろけながら立ち上がって、下敷きになっていたカットーフェンを解放する。マルシュカは急いで彼の傷口を確認する。
僕は婦人の方へ近寄って、首元に手を当てた
——脈はなかった。
「おい、お前が婦人を殺したのか?」
僕はドロシアを睨みつける。
「ええ、そうです」
「なぜ殺す必要があった?」
「仕事ですから」
彼女は悪びれる素振りも見せず淡々と答えた。
「……おい、グ、リム……」
カットーフェンの小さな、今にも消えそうな声がした。
「いけない、今は喋ってはいけない……!」
マルシュカが制止する。僕は咄嗟に駆け寄る。
「どうした?」
「……ぶ、無事か……?」
「ああ、僕は無事だ。君のおかげだよ!」
僕はカットーフェンの血でべっとりと濡れた手を握る。彼はもう何も言わず、ただじっと僕を見つめた。
「……どうしてほしい? どうか、なんでも言っておくれ……!」
僕は懇願するように彼の手を握る。
「もう死んでいるわ」
マルシュカはそっと彼の瞼を閉じた。
イリニアは苦虫を噛み締めたような、悲痛な表情を浮かべた。
「なぜ彼は死なねばならなかった、ピエリス」
「彼はブタルテ人でした。我々はあなたが拘束されていると判断し、殺害いたしました」
「彼らは私を守ってくれたのだ。……カットーフェン、この男は私に靴を作ってくれた」
イリニアはカットーフェンの亡骸を見つめた。そして次に僕と婦人に目をやる。
「グリムは私を介抱しただけでなく、寝床を提供してくれた。婦人は私を黙認してくれた」
ドロシアはただ頭を下げ、もう何も言わなくなってしまった。
ピエリスはゆっくりと僕たちの近くまでやってきて膝をつくと、彼女は人当たりの良さそうな声で
「申し訳ございません。味方であったとは思わず、我々の不手際で彼を犠牲にしてしまいました。申し訳ございません」
と頭を下げる。
「それから、我が主がお世話になりました。このようなことになってしまって、申し訳ございません」
「もう、良いんですよ……」
僕は投げやりに答えた。
ドロシアが顔を上げると
「イリニア様、そろそろ警察が到着するかもしれません。急ぎましょう」
と言った。イリニアは僕とドロシアを見比べて唸った。そして決心したように頷く。
「——確かに。急ぐべきだな。……グリム、マルシュカ。私は彼らと共に行く。行かねばならない。そなたらは我らと来るか? ブタルテ連邦にいるよりは、我らとともに連合国に合流したほうが息苦しさは少なかろう」
「僕は……」
わからない。わからなくなってしまった。
僕はカットーフェンを見つめた。彼は僕と一緒に理想を共有した。今も彼の思いは僕と同じだろう。
マーガレット婦人を見つめた。彼女は死ぬ間際に何を考えたのだろう。でも彼女は本当によくしてくれた。僕がイリニアを庇う決断をしなければ、死なずに済んだであろう。
「僕は、行かないよ。この国には多くのものがある。ケジメをつけなくっちゃならないことばかりだ。だから悪いけど、行けない」
「そうか。そうだろうな」
イリニアは瞼を閉じて頷いた。
「マルシュカ、貴様は?」
マルシュカも言葉に窮していた。ただ彼女は僕よりいくばくか冷静であったようで、ゆっくりと言葉を選ぶように答えた。
「私も行けないわ。アスタルテには、まだやることがあるもの」
「そうか」
イリニアは深く目を落とした。その先にはカットーフェンとマーガレット婦人。彼女はカットーフェンの元までやってきて彼の手を握った。
「カットーフェン・ブロンドヘン、すまなかった。貴殿の靴は本当に立派だった。大切にしよう」
それからマーガレット婦人の手を握り
「マーガレット・イワーノブナ婦人。貴殿にも心からの感謝を」
と呟いた。そしてキリッと立ち上がると、
「グリム・ガスパール。マルシュカ・ドルマン。私は貴殿らを死ぬまで忘れぬ。この恩は決して忘れぬ」
と頭を下げた。それを見てピエリスが驚いた顔をしている。
「世話になった。心から感謝してもしきれぬ」
「いいのよ、私はむしろ貴方とお友達になれてとても楽しかったもの」
二人は握手を交わす。
「そうでしょ、グリム?」
それから、マルシュカは僕の表情を伺った。
だが、僕は何も言葉が出なかった。
別に感謝されたくて、何か報酬が欲しくてイリニアを匿ったわけではなかった。僕は僕の理想に従って、彼女を助けただけだった。だけれども、その結果が親友の死、世話になった恩人の死。
イリニアが無事に仲間に出会えたのなら、それでよかったはずなのだ。それなのに、僕はどういうわけか、憎たらしくて仕方なかった。
黙りこくる僕を見て、イリニアは困ったような表情を浮かべた。
「すまなかった。心から感謝している。またいつか会おう」
「イリニア様、急ぎましょう。当局がきます」
「そうか。名残惜しいが、去るとしよう」
そう部下に答えると、イリニアと彼女の部下二人は、激しい雨のアスタルテの街中へと歩いて消えた。
僕らは取り残されてしまった。
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マーガレット荘の襲撃は翌日には朝刊にひっそりと掲載された。タイトルは『シュトラウスによる連続無差別テロ。統一軍学生により退けられる!』。要するに僕がシュトラウスを撃退したという内容だ。でも実際はカットーフェンも婦人も守れなかったし、僕自身はイリニアによって守られたにすぎない。
翌朝はエリシアが僕の部屋にまできてくれた。
「今回の事件は災難だった。だが、マーガレット荘は統一党がこれから運営することになるそうだ。お前はこれまで通りここに生活してくれて構わない。——ところでシュトラウスはどうしてここを襲撃したのだろうな?」
「わかりません、僕にも」
「奴らについて、私にも聞かせてくれ」
僕はピエリスとドロシアの話をした。イリニアとの生活については話さなかった。
「……カットーフェンのことは残念に思う。婦人のことも」
エリシアは俯いた。
「もう大丈夫です」
僕は小さく答えた。すると彼女は僕の両の手をギュッと握った。
「なんでも言ってくれ、頼むよ、グリム。私はお前の味方だ」
彼女の手は冷たかった。彼女は優しく僕に微笑みかける。まるで僕の態度を伺っているかのようだった。
だが彼女は少佐だ。僕とはまるで立場が違う。
「ありがとうございます。でも本当に大丈夫なんです。来週から始まる大学にもきちんと行きますし、報告書もきちんと書きます。だから、今はもう、一人にしてください」
僕が力なく答えると、彼女は目線を落とし
「そうか、わかった。今日は帰るよ。また会おう、グリム」
と小さく言って、制帽をかぶって部屋を出て行った。
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あれからもう一週間がたった。マーガレット荘はすっかり静かになってしまった。統一党が管理すると言っても、今まで通り掃除が行き届くことはない。婦人が朝食を持ってきてくれることも。
イリニアもいなくなってしまった。僕はなんだか燃え尽きたような感覚がした。すっかり脱力して、ただただ体が重たく感じた。
ベッドに横になっていると、ドアがゆっくりと開いてマルシュカが入ってきた。
「散らかってるわね」
彼女は床に放置された着替えや本、そして食器類を踏まないようにゆっくりと僕のベッドまでやってきて腰掛けた。僕も起き上がって隣に座る。
「茶でも淹れようか?」
「いえ、大丈夫よ」
立ちあがろうとする僕を彼女は制止する。
それから少しの沈黙が訪れた。
「その、カットーフェンさんと婦人のこと。とても悲しく思うわ」
「今度教会で二人分の葬式をする。一緒に行こう」
「ええ」
「なあ、マルシュカ。屋根裏の掃除を手伝ってくれないか?」
ふと思い出して、僕は彼女に提案する。ここ数日は何も手がつかず、そのままになっているはずだ。
「そうね、やりましょう」
僕らは部屋を後にして、屋根裏部屋に入る。そこは先週から何も変わっておらず、イリニアのいた痕跡がそのまま残されている。
「茶葉がないな。それからいくつかの小物も」
「あの日、思い出として持って行くって言ってたわね」
「そうか。ならよかった」
僕はイリニアの寝床を見つめた。きちんと毛布が畳まれている。スリッパも揃えられている。あんなにだらしなく眠っていた王女様はもういない。
「残りは捨てよう」
「そうね。そうするしか、ないわよね」
もし当局にイリニアの痕跡が見つかれば、疑われるだろう。わざわざ残しておく理由はなかった。
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掃除を終えるともう夕方になっていた。
「明日から大学ね」
「ああ、またよろしく」
「ところであなた、最近食べてる?」
彼女は僕の体をまじまじと見つめた。
「ははは、食べてるよ」
「嘘。ちょっと痩せてる」
「この半年、ずっと怪我ばかりしてるんだ。痩せたって仕方ないだろ?」
「そうかもしれないけれど。もしよければ、今から夕飯を作ろうか?」
「ありがたいけれど、1階はまだ事件の捜査で閉鎖されてる。キッチンは使えないよ」
「なら一緒に食べに行きましょう」
「気を使わないでいいよ。その気持ちだけで十分だ」
僕は手を振った。
「……私が一緒にいたいのよ」
僕は初めて彼女の顔を見た。彼女はじっと僕を見つめている。彼女は怒ったような、抗議するような目線で僕を見つめていた。
「すまなかった。……ありがとう、マルシュカ」
「何もまだしていないわ」
彼女の表情は和らいだ。
「さあ、一緒に食べに行こう。カットーフェンが好きだった店がある。マルーシェチカって言うんだ。あそこはうまいぞ」
僕は立ち上がった。
1821年9月17日。ブタルテ連邦アスタルテ市マーガレット荘にて