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3人の晩餐の翌日。
僕はいつも通り婦人から朝食を受け取り、朝刊を読む。今日の朝刊は計画経済の話、旧サーベリア領のブタルテが占領する地区での反乱、獣人が多く住むバシルス共和国の治安悪化といった、いつも見る内容だった。末尾には大体「我が国の安全保障にかかわる事案である」と書かれている。見飽きた。
婦人は朝食を少し多めに持ってきてくれるようになった。表向きは僕が沢山食べるためだが、実際はイリニアの分を含むためだ。
「よし、そろそろいくか」
僕は2階に住んでいる。1フロア2部屋で4階建てだ。故に朝家を出ていく隣人らの足音を聞くことができる。全員が出ていくのを確認して、僕はやっと取っておいた朝食を屋根裏部屋まで運ぶことができるのだ。
この日は随分と遅くなってしまった。もう昼前だ。僕はスープを取っておいた魔法瓶と、パンを紙で包んでポケットにしまう。そして部屋を出て階段を登り、屋根裏部屋への梯子を登って鍵を開ける。
「おはよう、イリニア。いや、『こんにちは』かな?」
と頭だけ出して小さく囁く。しかし返事がない。僕は梯子を上り切って部屋に入る。
イリニアはベッドの上で大の字になって寝ていた。左足ははみ出て床についている。
いつもならこの時間にはとっくに起きているはずなのに、この王女は朝食をすっぽかして眠り散らかしている。よだれが口から流れ、差し込む日光に照らされている。
「おい、イリニア。起きろよ、朝食を持ってきたんだ。もう昼だぞ」
と僕はパンとスープを取り出して、台の上に置いた。
「ふえ?」
イリニアは声にもならないような音をあげ、それから僕に気がつくとバサっと起き上がる。
「おはよう、イリニア」
「い、いつからいた……?」
イリニアは恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「たった今来たばかりさ。随分とゆっくり休めたようだね。ほら、朝食。スープは魔法瓶に入れたからまだ暖かいと思う。早く飲みなよ」
彼女は急いで衝立の後ろに向かう。それから衣擦れの音がし始めて、僕は後ろを向く。着替え終わると彼女は髪を後ろで縛りながら出てきた。
「朝食の配膳、感謝する」
イリニアはいつも通りの威厳ある口調で言った。今更キリッとされても説得力がない。
「今日は友人のカットーフェンに会いに行こうと思う、君の靴を作ってもらうために」
「昨日の話か。だが……」
イリニアは言葉が続かず、俯いてしまう。
「どうしたんだ?」
「私は貴様に何も返せていないと思ってな。それが心苦しいんだ」
と彼女は申し訳なさそうにする。「気にすることはないさ」ということは簡単だが、それではきっと解決しないだろう。何かしら対価を求めたほうがよさそうだ。
「じゃあ、僕に魔術を教えてよ」
「魔術?」
「たまにマルシュカと魔術の話をしてただろう? 僕はまだあまり魔術を知らないんだ」
と頼むと、イリニアは
「良いだろう。貴様に私の魔術を教えてやる。敵の軍人に塩を送るような真似だが、まあ良いだろう」
とニヤリと笑った。
イリニアは早速朝食に手をつけ始めた。背筋の伸びた美しい所作で食べ物を口に運んでいく。
「さて、まずは初等的な魔術を実演してみろ。水や火は起こせるか?」
イリニアはパンにバターを塗りながら言った。
「火だけだね、僕が知ってるのは」
大学で借りた教科書で読んだ魔法は、どれも僕には実行できなかった。結局まだ使えるのは簡単な火の魔法だけだ。
僕は目を閉じる。
「ロウマップ……!」
集中しながら火焔の呪文を唱えると、指先に魔力が流れていく。そして指先に火がついた。
「火の魔術か。古典的なものだな。誰に教わった?」
「軍隊の仲間さ。歳上だった。戦場じゃこれが役に立つんだとさ。焚き火の火種になる。あとはタバコを吸う為に覚えてたヤツもいたな」
「発展系はどうだ? 接頭辞をつけることで、より強化された魔術を行使できるはずだ」
「いや、僕にはこれ以上はできない。練習してたけど軍隊時代からできた試しがないんだ」
「では代わりに魔剣術を試してみるか。物体に魔力を込めるんだ。やってみろ」
彼女はバターナイフを僕に突き出した。パンにバターを塗ったばかりで、ちょっと汚れている。
「え、魔力の流れ?」
「ロウマップを使う時に貴様も体内に流れるエネルギーを感じたであろう、それが魔力だ。それを物体に込めるんだ」
「よくわからないけど、やってみるよ」
僕は言われた通りに試してみる。
「フン! フン! ……うーん、ダメだね」
ナイフはうんともすんとも言わない。梨の礫である。
「力み過ぎだ。使うのは筋力ではなく魔力なのだ。だからこれは技量の問題だ。よこせ」
彼女は僕からナイフを受け取る。
「こんなようにやるんだ」
イリニアは当然のことのようにナイフを青白く光らせた。
「魔力を込めることで物体は硬くなる。剣に込めればより鋭くなんでも切り落とせるようになる。さあ、もう一度」
僕は彼女からナイフを受け取った。
落ち着いて集中する。目を閉じて自分の肉体に意識を向ける。
指がぴくりと力むが、僕は一度呼吸を整える。
部屋は静まり返った。イリニアも食事の手を止めたようだ。屋外の馬車の車輪の音や言い合いの音、そして僕とイリニアの呼吸音だけが響く。
指の先に血が集まるような感覚がする。そしてその血がナイフに向かって流れていく。ナイフの先まで僕の指になってしまったような錯覚。
「———ふふふ」
イリニアが笑ったので、僕はゆっくりと目を開いた。するとナイフがぼんやりと青紫色に鈍く光っている。
「素晴らしい。見事だ」
「これが魔剣術かい?」
「そうだ。まさかこれだけで魔剣術の入門に至るとは。私の近衛でも、結局魔剣術ができず終いになった者もいるというのに。大したものだよ、グリム」
イリニアは優しく目を細めた。
「マッチの方が明るいじゃないか」
僕は照れ隠しをしたくて、悪態をついた。
「ところでそろそろ正午だな」
とイリニアは言った。
「今日はカットーフェンとやらに会うのではなかったか?」
「もうそんな時間か。ありがとう、イリニア」
「構わぬ。貴様には世話になり過ぎているくらいだからな」
「じゃあそろそろ僕は行くよ。僕の部屋の鍵のスペアを君に渡しておくから、ぜひ入ってくれ。パンと缶詰ならあるから、お腹が空いたら自由に食べていいよ」
「恩にきる」
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イリニアをおいて屋根裏から降りる。そして僕の部屋で外着に着替えると、マーガレット荘から中央通りへ向かった。それから僕は大衆食堂マルーシェチカへ行った。予想通り、そこにはカットーフェンがいて、僕と目が合うなり
「よお、グリム。こっちこいよ!」
と叫んだ。よかった、幸い今日は彼は一人のようだ。なぜか軍服を着ている。
「久しぶりだな」
「一ヶ月ぶりくらいかな?」
「おい、店員! こいつにシチューとカーシャ、それから俺にワインを!」
カットーフェンは僕の右肩に手を回すと
「会いたかったぜ、相棒」
と笑った。酒の匂いはしなかった。
「どうして軍服を着ているんだい?」
僕は聞いた。
「復帰命令さ。お前も聞いてないか、花摘みの件。軍人も人手不足らしくてな、俺みたいな見習い靴職人にも声がかかったんだ。今日は朝に事務所に顔出ししただけで、午後はもう休みだ。ところでお前は最近どうなんだ?」
「夏休みで暇してるよ。世間では花摘みだの粛清だので賑わっているようだけれど、僕には関係ないね」
大嘘である。
「そうか。平穏そうでなによりだ」
カットーフェンは微笑んだ。
料理がきた。マルーシェチカの料理はいつみても食欲をそそる。イリニアにも試してもらいたいが、そうもいかない。悔やまれる。
「ところでカットーフェン、君に頼みたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「靴を作ってもらいたいんだ」
「靴? お前の靴は立派だし、まだ新しく見えるが」
「いいや、僕じゃない。女の靴だ。なるべく歩きやすいやつ」
するとカットーフェンはニヤリと笑って
「あはぁん。ってすると、女だ」
「女物の靴って言ってるだろ」
「そうじゃねぇ、誤魔化すなよ。前に言ってたマルシュカちゃんだろ? お前のガールフレンドの」
「彼女は単なる友人さ」
「ならこれから親しい関係になるってことか? こいつはたまらんな!」
カットーフェンは興奮したようにして笑った。
しかし僕が
「いや、本当に違うんだ」
と真面目な顔で答えたからか、彼はふざけるのをやめて
「何か訳がありそうだな」
と言った。
「そうなんだ。君には直接僕の家に来て欲しい。彼女は家から出られないんだ」
今のアスタルテの粛清の流れは彼も知るところである。カットーフェンは察したように頷いた。
「わかった。とりあえずはこの後食ったら行ってやる」
それからカットーフェンは暗い話はごめんだとばかりに手を振ると、ワインをクイっと飲み干し
「まずは飯を食おう。おい、マスター! 俺にはボトルが必要だ!」
と叫んだ。
---
マルーシェチカを出て、僕たちはマーガレット荘へ向かった。
「ここが、グリムの住まいか」
「そうだよ」
「なかなかいいじゃねぇか。羨ましい」
と言いながら、ガツガツと門を開けて中へ入る。
「で、どこに俺のお客さんはいるんだ?」
「屋根裏さ」
「おいおい、マジかよ」
カットーフェンは呆れたように空を仰ぐと
「とりあえずはやるか」
と言った。
屋根裏部屋に入ると、イリニアは本を読んでいた。
「入るよ」
「構わん」
僕とカットーフェンは穴蔵みたいな空間に入る。
イリニアはベッドに座っていた。そして軍服を着たカットーフェンを見てグッと構えた。
「どういうことだ、グリム」
「落ち着いてくれ。彼は僕の同郷の幼馴染で、今は靴屋をしている——」
「カットーフェン・ブロンドヘンだ、よろしく頼むよ。大丈夫だ、信じてくれ」
と彼は制帽をとってうやうやしくお辞儀した。
イリニアはじっと彼を鋭く見つめ、そして決心したらしく口を開いた。
「貴様はグリムが言っていた友人とやらだな。貴様が私の靴を作ってくれるのか?」
「まあね。俺のグリムの頼みだ。あんたが党に追われる身だろうと見逃すし、靴くらいは作るさ」
彼は白い歯を見せて爽やかに言った。
「そういうことなら信じよう」
そして、イリニアは威厳を持って
「私はイリニア・ローズ・サーベリア。サーベリア公国第一王女だ」
と名乗った。
カットーフェンはサーベリアの名前を聞くと、驚いて肩がぴくりと跳ねた。彼は僕の肩をつかむと小さく耳打ちする。
「おい、聞いてないぞ。グリム」
「すまない。でも外じゃ言えないだろ」
「俺はてっきり旧王党派とか今は無実なのに昔の罪を掘り起こされて逮捕されるような哀れな連中の一人だと思ってたんだ、それなのに……」
カットーフェンはこめかみを抑える。そして諦めたようにため息をつく。
「まあいいや。俺は何も知らん。ただ靴は作ってやりますよ、王女様」
「感謝する」
「イリニアさんって呼んでも?」
「好きに呼べ。ところでお茶はいるか、もてなすぞ?」
イリニアは僕が買ってきた茶葉の瓶を取り出す。
「いや、結構です。さっさと仕事を済ませたいです。まずはこいつを踏んでくれ」
カットーフェンはカバンから紙を一枚取り出し、彼女の足元に置いた。
「こうか?」
イリニアは脚を伸ばす。
「いや、立って踏んで欲しい。靴は立って歩く時に活躍するもんだ、座ってる時じゃない」
「うむ。確かにその通りだな。よし、こうか?」
「うん、それでいい。どれどれ——」
カットーフェンはペンを取り出して、紙の上に線を引いていく。
「なるほど、大きさはよくわかった。次に周の長さだ」
と彼は巻き尺で足の立体的な大きさを計測し、事細かくメモをとった。
「よし、できたよ。作るのはブーツでいいかな? まだ暖かいがこれから冬になる。アスタルテはすぐに冬がくるからな。暖かくかつ歩きやすい革で縫い上げたお洒落なヤツを作らせてもらいますぜ?」
「特に私にこだわりはない。だが、可能な限り街に溶け込むものが良い」
「なら尚の事ブーツだな! 一週間くらいで作ってみせるぜ」
「一週間で足りるの?」
と僕。
「普通は無理だが、頑張るさ」
「感謝する」
「頭を下げる必要はないですぜ、イリニアさん。こいつの頼みだから聞いてるだけです」
「だとしても、感謝する」
「じゃあ今日はこれで。また今度、完成したのを持って来ますぜ。それまでお元気で」
カットーフェンはお辞儀をすると、スタスタと梯子を降り始める。僕は急いで彼を追いかけた。
階段までやってくると、彼は途中で僕の両肩を掴んで、ぐいっと壁に押さえつけた。
「何をするんだ?」
「俺はお前を愛しているから通報はしない。だけどもこんなのやめた方が良い」
彼は低く震える声で言った。
「でも彼女を救いたいんだ」
「党を敵にするぞ? いいか、相手は王女だ。それも敵国の。バレたら只じゃ済まない。今のブタルテじゃ、銃殺刑だってありうる。お前だけじゃなくて、お前を推薦したエリシア大尉だって」
彼はまだ彼女が昇進したことを知らないようだ。
「彼女は今は少佐だ」
「そんなの今は関係ないね。いや、むしろ尚の事重大か。少佐の顔に泥を塗るなんて」
「だけれど助けずにいられるか? 彼女は死にかけていたんだ。一度助けてしまったら情が移る。彼女を見殺しにはできないよ」
僕が叫ぶようにいうと、カットーフェンは諦めたようにため息をついた。
「ああ、もういいよ。靴は作ってやるが、それきりだ。もうそれきり俺はこの件には関わらないぞ。ましてや俺はサーベリア残党狩りの任で軍に復帰してるんだ。こんなの俺には荷が重すぎる」
「ごめんよ」
「もういいさ。それに俺はお前が間違ってるとも思わないんだ。だって俺たちが統一党に入ったのは、みんなを幸せにしたかったからだもんな。敵国人は例外ですとは言えんだろ」
「カットーフェン……」
僕は心から良い友人を持ったことを誇りに思った。同時に、僕のわがままに彼を付き合わせてしまったことが、どこか後ろめたく思われた。
僕は彼を抱きしめたいと思った。——抱きしめておけばよかった。