幸者堂
亡国の王女

第1章 ブタルテ連邦アスタルテ市にて · 第09話

花摘み

 ドロシアという修道女と出会って一週間が経過した。あれから僕は一度も彼女に会わずに済んでいる。よかった。  イリニアとの生活もようやく安定した。彼女は屋根裏部屋で小さく生活し、時折僕の部屋に来ては本を読んだ。  マルシュカも研究が忙しいそうだが、合間を縫ってイリニアに差し入れを持ってきてくれる。とてもありがたいことだ。  ある日の雨が降る夕方。マーガレット婦人とキッチンで話していた。 「今夜の晩餐はガチョウの丸焼きですよ」 と彼女は僕に言った。  この日は僕の部屋にイリニアとマルシュカを集めて食事をする約束だった。そこで婦人に僕は事前に食事をお願いしていたのだ。 「ガチョウですか、鳥の?」 「そうです、鳥の」 と彼女が目線を投げたオーブンからは、りんごの甘酸っぱい香りが煙に乗って、僕の鼻腔をつついた。 「先日、狩猟を趣味とする私の知人が取ってきたのですが、それが随分と大猟だったそうで。食べきれぬからと私も二羽いただきました。とはいえ私は一人暮らしの引退生活です。とても食べ切れる量ではありませんでした。ガスパールさんがちょうど料理を頼んでくれたので、私としても大助かりなんですよ」 と婦人はるんるんと跳ねた。不覚にも可愛いと思ってしまった。 「もう少し焼き上がるのにお時間をいただきます。すでにシチューとパンはそこに用意してありますので、ご自身でお部屋に運んでくださいな」 「わかりました」 と僕はバゲットの入ったカゴと鍋を抱えて自分の部屋に戻った。そこにはイリニアが窓際で本を読んでいる。ポニーテールをしていて、くつろいでくれているようだ。 「手伝いはいるか?」 「いや、大丈夫。それよりテーブルを片付けて欲しい」  イリニアが頷いて読んでいた本の山を本棚へ戻すと、僕はどんと料理を置いた。 「マルシュカはまだきていないか」 「まだのようだ」 僕らは窓の方へ視線をやる。外はあいにくの雨で、道路にはちょっとした川ができていた。マルシュカには悪いことをした、こんな雨の中来させなくてはならないなんて。 「ところで、何を読んでたんだ?」 「詩集だ、かつてエリーゼ・カルマートというメタリカの人が書いた。貴様も読んだか?」 「軽く読んだだけだね。気に入ったかい?」 エリーゼ・カルマートはメタリカ帝国黎明期に活躍した魔法使いだったと聞いている。晩年は美しい詩を描いたと言われる。 「ああ、面白いな。サーベリアではメタリカの本はなかなか手に入らなかったから、とても貴重なものを読めたよ。この版はメタリカ語の記述も併記されていて元の響きが堪能でき、それも良かった」 イリニアはそういうと頬を緩めた。  そこにちょうどノックが来た。「僕が出るよ」と言って、ドアをわずかに開いて覗くとそこにはマルシュカがびしょびしょになって立っていた。 「入れて」 「もちろん」 僕は彼女からレインコートを受け取り、壁にかけた。 「ひどい雨だったな」 とイリニアは部屋の奥からタオルを持ってマルシュカに渡す。 「ありがとう。本当に参ってしまうわ。この辺りはまだ排水設備が整ってるけれど、私の住む旧市街地区は泥が溢れるから嫌なの」 とマルシュカは答えて、髪を解いてからタオルで挟むようにして拭いた。普段は見られぬ、マルシュカの髪を下ろした姿である。眼福。  そこへ続いて婦人もやってきた。 「おや、みなさんちょうどお揃いで。3人分にはちょっと多いかもしれませんが、ガチョウですよ。旬のりんごを詰めて焼いたのもです。どうぞ」 と彼女はテーブルにどんとこんがりと焼けた丸焼きを置いた。 「食べ終わったら片付けを手伝いにきますので、呼びにきてください」 と婦人は言って出て行った。 「さあ、食べようか」 「ええ、食べましょう」 僕らは席について、各々の皿に料理をとりわけ始めた。  ガチョウにナイフを入れたタイミングで、マルシュカが   「ねえ、イリニア。あなたは普段からそのスリッパを履いているの?」 と言った。さっき見えたのだろう。 「そうだ。この建物から出ることはないし、これで大丈夫だと思っていたが……?」 「誰かとうっかり遭遇した時に、変に思われるわ。正規の住人でもないのに、あまりにラフな格好すぎるもの。あくまであなたはグリムの友人としてここに遊びに来ているという嘘を貫かないといけないのだから、不測の事態に備えてせめて客人に見える服装はしておくべきだわ」 と言った。  確かにその通りである。彼女の足元だけは不自然だった。 「しかしマルシュカ。服などならまだしも、靴を買うとしたら靴屋に私が行かないとだめだ。靴は本人が履いて確かめないといけない。だが私はアスタルテの街を自由に歩く訳にもいくまい」 とイリニア。 「僕の友人に靴を作ってる男がいるよ。彼を頼ってみても良いかもしれない」 僕は愛すべきジャガイモ頭のカットーフェンを思い浮かべる。 「なら今度話をつけてきてくれないか?」 「任せて」 「ありがとう。ところで、このガチョウは美味しいな。王宮にいた時のシェフよりも美味しいかもしれない。りんごはあまり私の住んでいた街には流通していなかったからな、珍しいよ」 「お口に合いましたか?」 「とても」 「マルシュカは?」 「私もとても気に入ったわ。いいなぁ、グリムは。こんな素敵な部屋に住めるなんてさ」 「いつでも来てくれ。君はもう僕の友人なのだから」 「ありがとう、グリム」 彼女は笑った。 ---  晩餐は続いた。美味しい食事に、イリニアが僕が買ってきた茶葉から暖かい良い香りのするお茶を入れてくれた。料理は出来ぬのにお茶を淹れるのは達人の域であった。  意外だったのだが、マルシュカとイリニアは馬があった。文学やお茶の話で盛り上がり、すっかりすっかり打ち解けていた。  僕は二人を見た。  なんて素敵なんだろう、こんな暖かい空間があるだなんて。外は大雨で、どこからか言い争う声が聞こえてきた。それでもこの部屋だけは異世界のように、うっとりと明るく優しかった。花が咲き誇るように会話が弾んだ。    それは他の二人も同じなのだろう。マルシュカは歌い始めるし、初めは警戒し切っていたイリニアも気を許して笑ってくれている。 「——聞いて欲しい」 ふと、イリニアが口を開いた。  僕とマルシュカは歌を止めてイリニアを見つめた。 「私は強い。自分でも才色兼備だと思うほどに、私は優れた人間だ。剣術は王宮でもトップだったし、学問だってそれなりに修めてきた。傲慢かも知れないがな、ふふふ……」 イリニアは俯いた。 「しかし、私は自分が幸せだとは思った事がなかった。王女として求められる基準には満たしていなかった。現に国は滅んだ」  部屋を照らすランタンの炎がゆらゆらと揺れ、イリニアの彫刻のような綺麗な顔を照らす。  そして覚悟をしたように僕らを見ると 「だが、お前たちと共に過ごして幸せだと思った。こんな場所でこんな状況なのに——ふふ、ありがとう。私は本当に嬉しいよ」 その声はいつもの威厳というよりは、どこか暖かく親しみがあった。  僕はうるっときた。たとえ敵国の王女であろうと、我々は理解し合えるのだと胸が熱くなった。    マルシュカもイリニアに抱きついて 「私も嬉しいわ、あなたとお友達になれて!」 と叫んだ。普段は呟きほどの声量なのに、こんなにはしゃげるのかと僕もイリニアも驚いたが、僕らは目配せして、そして笑った。  ——こんこん。とノックがきた。  途端、僕らは静まり返る。微笑みがこわばって、現実を思い出す。 「婦人かしら?」 「いや、ない。呼びに行くまで来ない手筈だ」  イリニアに目配せすると、彼女はそっと寝室へ入ってドアを閉める。それを見届けると、ドアを少し開けて、外を覗く。  そこに立っていたのはエリシア少佐だった。右手にステッキを左手には濡れたコートを抱えている。 「こんばんは、グリム。中に入っても良いか?」  気が付かなかった。階段を登る足音も、おそらく彼女がここに来るまでに乗ったであろう自動車の音も。僕らの無警戒な談笑がかき消したのだ。 「ええ、どうぞ」 僕は怪しまれぬように彼女を部屋にあげた。 「おや、マルシュカさんだったのか。外まで楽しそうな声がしたよ。すまない、夕食の邪魔をしたかな?」 「いえ、大丈夫です」 とマルシュカは震える声で答えた。あの学生運動以来、マルシュカはエリシアに恐怖を覚えるようになっていた。 「ちょうどよかった。二人にいい知らせと悪い知らせがあるんだ。——ここ、座ってもいいか?」 とエリシアはさっきまでイリニアが座っていた座席をとった。僕が「どうぞ」というと一瞥して、座る。 「どちらから聞きたい?」 「では悪い知らせから。良い知らせは良い後味のためにとっておきたいですからね」 「ふふふ、お前らしいな。良いだろう。まず悪い知らせだが、この街にサーベリアの残党が侵入したことがわかった。シュトラウス、と彼らは名乗っているが、サーベリアの特殊部隊らしい」 「シュトラウス……サーベリア語で花束という意味ですね」 とマルシュカ。 「いかにも。だから我々は彼らを狩る事を『花摘み』と称している。ふふ、皮肉が効いてるな」 エリシアは冷たく笑う。 「奴らの狙いは報復だろう、つまりはテロだ。我々の党員も何人か殺害された。気をつけろ、特にグリムは襲撃のリスクがある」 「はい、気をつけます」  ——きっとシュトラウスはイリニアの救出のために来てくれたんだ! 彼らの狙いは少なくとも、アスタルテの少佐クラスにはバレていない。うまく接触できればイリニアを国外に逃がせるかもしれない。 「そして、良い知らせだが。不可侵条約を結んだことを契機に、メタリカとブタルテ間で交流しようという話が上がっている。手始めにアスタルテの学生を交換留学に迎えたいそうだ。かつての仮想敵国で信用ならぬとはいえ、グリム、そしてマルシュカさんにとっても、とても良い刺激になるのではないか?」 「交換留学、ですか。それはいつですか?」 「来年の春を予定している。半年間の短い期間だが、学べることはたくさんあるだろう」 「メタリカか……」 僕は考えた。イリニアをメタリカ経由で第三国に逃すこともできるかもしれない。いや、難しいか?  そんな僕を見てエリシアは微笑む。僕が悩んでると見たのだろう、 「何もすぐ決めることじゃない。今年中に決めればよい。それまで好きなだけ考えて良いさ」  言い終わると、彼女は席を立った。 「もう行かれるのですか?」 「まあな、要件は済んだ。早く帰って寝たい。——ところでグリム。3人分の食器があるが、これは?」 と彼女はイリニアの食べ終わった食器をみた。 「僕が二人分食べたんですよ」  咄嗟に出たのはどうしようもないくらい出来の悪い嘘だった。 「そうか」 しかしエリシアは僕を信じ切ってくれているのか、 「変な食べ方をするんだな。だが安心した。お前はあまり昔は食べない方だったからな。成長期だ、たくさん食べて強くなれ」 「はい!」 「マルシュカさんもお元気で」 「は、はい……」 エリシアは制帽を被って椅子にかけたコートを羽織ると、部屋を出て行った。  エリシアが門を出てエンジンの動き出す音が聞こえなくなると、僕らはどっと息を吐いた。 「行ったぞ、もう出てきて良い」 ガチャリと寝室からイリニアが出てくる。 「あれは何者だ?」 「エリシア・ヴィッシ・ダルテア少佐。僕の上官で、今は内務省で働いてる」 「ところでシュトラウスのこと、何か知ってる?」 マルシュカはイリニアに聞く。 「シュトラウスは私直属の近衛だ。拉致された時に、私を乗せた飛行船を襲撃したのもシュトラウスだった」 「接触できれば、イリニアは無事に帰れるのかな?」 「おそらく。でも彼らがどこにいるかわからないし、変に活動しようものなら当局に逮捕されるのが関の山だ」 と僕は言った。  二人は顔を曇らせた。