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気がつくと僕は真っ暗な場所に横たわっていた。地面は真っ黒で黒曜石の様にツルツルだ。頭を起こして周囲を見回すと、辺りは仄かに明るく白い煙がモヤモヤと僕の周りを包んでいる。
けれども僕の周りだけはしっかりとはっきり見えた。まるでスポットライトが僕の真上から照らされ続けているかの様だ。しかし真上も霧の様なモヤが掛かって空すら見えない。
「不思議な空間だ……」
夢だろうか。だが、意識ははっきりしている。頭も痛くない。頬を拭ってみたが、血もついていない。さっき殴られたはずなのだが……やはり夢なのだろう。
少し歩いてみると、しばらくして木のような輪郭が見えてきた。
「おや、驚いた」
突然、少女のような柔らかい声が木の陰からした。僕は驚いて固まる。
「君、死んでるくせに、やけに形がくっきりとしているじゃないか」
よく目を凝らすと、声の主は木の上だった。枝に腰掛けて脚をパタパタとさせながら、こちらを楽しそうに見つめている。髪は黒く、病的なほど色白い、背丈の小さな女の子だった。ただその小さな身体には不釣り合いなほど大きな紫紺の瞳が、好奇心を灯してキラキラとしている。黒いドレスは喪服のようで、襟にも袖口にも控えめなフリルがあり、首元に紫紺のリボンを結んでいる。
僕への視線は、まるで珍しい鳥でも見つけたかのようだ。少女は「よいしょ」という掛け声で降りてくると、僕にゆっくり近づいてきた。
「……いただきます……」
がぶり。
「痛っ!」
突然少女は僕の腕に噛みついてきて、僕は咄嗟に突き飛ばした。勢いよく、彼女は地面に倒れてズザっと滑る。
「な、何をするんだ!?」
「お、驚いた。君はボクに触れるのかい?」
少女は「いてて」と頭を抑えながら、上半身だけむくりと起き上がる。信じられないと目を丸くしている。
「まさか君、生きてるのかい……?」
「残念だけど生きてると思うよ。少なくとも死んだつもりはない」
僕は怒りや抗議の感情を込めつつ、静かに答える。しかし少女はそんな僕の気持ちなんてつゆ知らず、相変わらず好奇心溢れる目線をよこしてくる。
「普通、死者は自分の死を認識しないものさ。だって死んだ時点で感覚も失うからね」
彼女はお尻をさすりながら立ち上がると、再び僕に近づいてくる。咄嗟に身構える。
「もう噛み付いたりしないよ、許しておくれ。ごめんね。どうかボクと仲直りの握手をしてもらえないかな?」
と少女は手を差し出してきた。僕は仕方ないなと、握り返す。すると彼女は嬉しそうに、
「へぇ、面白い。触ってみて確信したよ、やっぱり生きてるね、君」
と僕の顔を覗き込んできた。
「生きてたら不都合でもあるのか?」
「いいや、ないよ。ただちょっと驚いただけ。この世界は死んだ人間しか入れないんだよ」
「この世界? ここは夢じゃないのか?」
僕が聞き返すと、少女はケラケラと笑った。
「あはは、君はここが夢だと思ってたのかい? 夢はね、単なる脳の見せる現象さ。でもここはそうじゃない。ここはボクの魔力が生み出す世界だよ」
「ここが夢でないという証拠はあるのか?」
僕は訝しむ。
「うーん、そうだな。じゃあ、こういうのはどうだい? 君は今、アスタルテの大学の保健室のベッドの上で気絶してる。マルシュカ・ドルマンという女がいて、君の右手を握っている。それとエリシアとか言う女もいるね。この時代にしてはかなり腕の立つ魔剣士だ」
「そんなの、証拠にならない。信じられないね」
「じゃあ、信じなくても良いよ。この世界を出て、君が目を覚ませばわかるよ」
と彼女は諦めてしまう。なんだか悪いことをしたなと思った。
少女はそんな僕をまじまじと観察して
「ところで、君、見たところ何も身につけていないね。実に興味深いよ」
「それはどういう意味だ? 僕はほら、服を着てるぞ?」
僕は自分のシャツを見せつける。
僕はきちんと服を着ていて良かった。もし裸だったら、なんだか深層心理では裸族になりたがっているみたいになっちゃうだろう?
「服じゃないよ。ボクが言っているのは、ボクとの契約の魔術がこもった指輪さ。さっきも言ったけど、この世界は死者しか入れない。でも例外的にボクとの契約があれば入れるんだ。しかし君は生きている上に指輪すらない。とすると、自力で入ったとしか言えない。普通はあり得ないよ。面白いなぁ」
と彼女は僕の周辺をクルクルと楽しそうに歩いた。僕は全く楽しくなんてないのに。
「ところで君は一体何者なんだ?」
「ああ、ごめん。自己紹介が遅れたね。ボクは……」
と一瞬考えて、
「そうだな、フィーネ。うん、ボクはフィーネ・パブロア。そう名乗っておこうかな」
とフィーネは名乗った。
「君は死んでいるのか?」
「ううん、死んでないよ。厳密には半分死んでいて、半分生きてるって感じかな? ちょっと複雑な事情なんだ。ところで君の名前は?」
「僕はグリム。グリム・ガスパールだ」
「ぐりむ……そっか、グリムか……」
フィーネはその響きを舌の上で転がすように繰り返し、僕を舐め回す様に見つめてきた。なんだか居心地が悪い。
「な、なんだよ、変な名前だとでも?」
すると彼女はハッとして、
「いやいやとんでもない。いい名前だと思ったんだよ。暗くて、優しい。素敵な名前だ。ボク好みだよ。よろしくね、グリム」
とニコリと無邪気そうに笑った。名前を褒められたことなんてなかったので、なんとも不思議な感触だ。
「ところで、フィーネと言うのは偽名か? 名乗っておくだなんて言い回ししてたけれど」
「ううん、偽名じゃないよ。ちゃんとボクの名前だ。ただ数ある名前の一つってだけさ」
「他にも名前があるのかい?」
「あるよ。でも他人が勝手に名付けただけだし、可愛くなくてあまり気に入ってないんだ」
と彼女は肩をすくめた。
「それにしてもここは寂しい場所だな。退屈しないか?」
「ここはそんなに悪い場所じゃないよ。意外と賑やかなんだ」
「そうは思えないが……」
僕は再度周囲を見渡す。やはり、霧と黒い地面がどこまでも果てしなく続いている。あるのは彼女がいた枯れ木だけで、他には何もない。
「君では見いだせないだけさ」
ここでふと、僕はさっきまでのことを思い出した。マルシュカやエリシアが僕を案じているに違いない。
「ところで、出口ってあるかい? 友人が心配しているかも知れない。可能な限り早く、彼らに無事を知らせたいんだが……」
周囲には出口らしいものはなく、どこまでも深い霧が続いている。
「うふふ、ここに出口はないよ」
確かに「exit」と書かれた出口がある方が不自然かもしれない。
「でも大丈夫さ。いずれ君は目を覚ます、その時にここから出られるさ。それよりボクとお話しないかい? 君のような客人は本当に珍しくて、というか初めてなんだ。ぜひお願いしたい」
僕は一刻も早くここを去りたいと思ったが、こうも詰め寄られるとなんだか断りづらく思われた。
「お話ねぇ。じゃあ早速質問させてもらうけれど、さっきどうして僕に噛み付いたりしたんだい?」
するとフィーネの紫紺の瞳が怪しく光って
「それはね、ボクが死者の魂を喰らうことで生きながらえているからなんだ」
と、さっきまでの無邪気さとは正反対、どこか大人びた笑みを浮かべる。その不気味な表情に僕は思わずたじろぐ。
「せっかくだし、見せてあげようか、魂?」
そして僕が断る間もなく
「さあ、おいで」
フィーネは指をぱちんと鳴らした。
すると靄の中から一人の人の形をした影が近づいてくる。顔は見えない、ただ黒い影がそこに立っている様に見える。
「これは先程君を殴って気絶させた男の魂だ。可哀想に、直後にエリシアに斬り殺されたんだ」
影はフィーネの隣までやってくると、そこで静かに立ち止まった。煙のように輪郭がぼやけていて、色は真っ黒だ。光が吸い込まれているかのように、今まで見てきた何よりも黒かった。
「君にはどんなふうに彼が見える?」
「黒いぼんやりとした影だ。影のようにしか見えない」
「うーん、君の能力なら、顔くらいは見えると思うんだけどなぁ」
とフィーネは腕を組んで首をかしげる。
「能力? なんのことだ?」
「君の瞳の色、緑だよね。魔人の証拠だ。魔人は生得魔術を有する場合、何かしら代償として派手な部位を持って生まれる。例えばピンクの髪とか、鋭い犬歯だとか。君はその緑の瞳が証拠だ。——よく見ると、綺麗な瞳をしているね」
と彼女は僕に詰め寄る。どこか気恥ずかしく思えて、半歩退く。
「そうだとも。僕は魔人だが、それがどうした?」
「君も知っているだろう? 魔人は生まれながらにして、魔術を身体に刻む。そしてボクの見立てでは、君のそれは魂に触れる魔術だ。ボクの能力に似ているね」
『生得魔術』という単語には聞き覚えがある。事実エリシアにも生得魔術があったはずだ。だがそれは極めて稀なケースだとも聞いていた。ごく一部の魔人にしか存在しない能力で、僕にそんな能力があるようには思えない。
そんな考えが僕の顔に出ていたのかもしれない。フィーネは
「あ、信じていないね? なら実際に触ってみると良い、彼に」
と僕の右手を掴み、黒い影に触れさせる。
途端、僕の眼の前にはたくさんの記憶が溢れ出した。
——母親に抱かれ、厳しい父親に叱られ、家庭教師を雇われ、犬と戯れ、大学に入って、僕を殴り、そしてエリシアに斬り殺される。
「う、うわぁあああ!」
僕は恐怖し、影を突き飛ばして、それから腰を抜かしてしまう。エリシアに切断されて溢れ出た血の生温かさが感じられ、咄嗟に僕は自分の体を触って確かめた。
「無事だよ、大丈夫だよ、グリム」
「こ、これは何だ!? き、君は一体なんなんだ!?」
それは、まるで人生のすべてを一瞬で体験するような、まるで他人の走馬灯を経験するような感覚だった。まだ首を斬られた感覚が残っている。
フィーネは僕の横でしゃがむと、「大丈夫、大丈夫」と僕の背中をさすりながら
「落ち着いて。魂だよ、君は彼の魂に触れたんだ。彼の魂に刻まれた情報を読んだんだよ」
と言った。
それから、彼女は何事もないかのように続けてこう言った。
「それよりさ、大事な《《食べ物》》を粗末に扱わないでよ」
「え?」
僕が聞き返そうとした時、フィーネは妖しく舌舐めずりをして、それから立ち上がって影に近づくと、彼の胸元あたりに手を触れた。すると影は一瞬で霧散し、その黒い煙はフィーネの体を取り囲み、そして体の中に入っていった。
「え? いま、何をしたんだ?」
「食べたんだよ」
「た、魂を喰らったのか?」
「うん。ボクの大好物さ」
と彼女はなんでもないことのように言った。
僕は彼女に対して初めて、猟奇的な気持ち悪さやどんよりとした粘っこい嫌悪感を覚えた。
そんな僕の強張り表情に気がついてか、不思議そうにして
「おや、おぞましいと思うのかい?」
「ああ、思う。魂に対する尊厳とか、ないのか?」
僕は捻り出すようにして言った。するとフィーネは両手をあげてやれやれとしながら、
「グリム。魂は生き物から取れる素材にすぎないよ、考える思考もなければ肉体もない。ただの情報の塊さ。それに、君だって命を喰らうだろう? 一緒じゃないか」
「ぼ、僕も食べるつもりなのか?」
「いいや、もったいない。グリムはボクの、せっかくできたお友達じゃないか」
とフィーネは優しく言った。さっきまでは無邪気で可愛らしいと思っていたその笑顔が、今ではあまりにも恐ろしかった。
「あんまり怖がらないでよ、心からボクは君と仲良くなりたいと思ったんだよ?」
と彼女は微笑む。
僕が何も言えず口をパクパクとさせていると、フィーネは「おや」と言って
「そろそろ時間だ。君が目覚める……やれやれ、君の睡眠はずいぶんと浅いね」
と呆れたように言った。そして僕の両の手を握ると、
「ねえ、グリム。またここにおいでよ。もっと君のことを知りたい。君がどんな風に生きるかも。しばらく見ててあげるね!」
と眩しく笑いかけた。
僕は何も言えず、ただ茫然として、——そして僕は消えた。