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「おはようございます、ガスパールさん」
この家に来て、僕はマーガレット婦人に初めて起こされた。婦人は僕の脚元辺りから穏やかな笑みを浮かべつつ見下ろしている。
「そのまま寝かせて差し上げても良かったんですが、でも大学があるでしょう?」
「ええ、ありがとうございます」
僕が起きて着替えようとすると、その間に婦人はいつもの朝食を居間のテーブルに置いた。
「スープが冷める前に召し上がってください。新聞もここに置いておきますからね。食べ終わる頃にまた戻ってきます」
「いつもありがとうございます」
「それと、ベッドの上の本はお早めにお片付けなさったほうがよろしいですよ」
僕はハッとする。寝坊の原因は昨晩遅くまでドルストフの『人生と誇り』を読み耽ってしまって、いつのまにか寝落ちしていたようだ。
エリシアには捨てろと言われた。でもマルシュカが僕に勧めてくれた本でもある。
内容は面白かった。一人の天文学者が教会の弾圧に負けず、天文を追求するという話で、最終的に主人公は追放されて餓死する。しかし餓死の寸前、真夜中の星空を見て彼は涙を流す。結局主人公は報われない。だが、彼は自分の生き方を守った。立派な姿だった。
パンを頬張りながら、僕は今朝の新聞を開く。中身はいつもの計画経済の話と統一主義のコラム、メタリカ帝国の蛮行。どれももう耳馴染みだ。ドルストフの逮捕についてはまだ上がっていないようだ。明日の朝刊には載るだろうか?
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大学に行き、夕方ぐらいに講義が終わった。なんだか疲れた。昨晩の夜ふかしがたたった。
帰り際、ふと昨日の古本屋を思い出した。ドルストフが近々禁書になることくらいは伝えても良いかも知れない。そう思って、進行方向を90度変えた。
時計台の辺りで、声をかけられる。
「こんにちは、グリム」
それはマルシュカだった。何箇所か当て布された深緑のコートを着て、赤いマフラーがワンポイントのように明るく首元に巻かれている。
「こんにちは、マルシュカ。何か変わったことはなかったかい?」
「ええ、大丈夫よ……?」
釈然としない様子で、首をかしげつつ答えた。
「グリムはどうしてこっちに? 確か住まいは昨日の喫茶店の近くで、こっちとは反対の方だったはず」
「昨日の古本屋だよ、また行こうと思ってさ。マルシュカは?」
「私はこっちに住んでるの。旧市街の女子専用の賃貸があるのよ。今は帰り」
「よかったら一緒に昨日の本屋にいかないか?」
「良いわよ。昨日見れなかった店の奥も気になるし」
僕らは中央通りから旧市街へ入る。そこはやはり凸凹した道路で、行き交う人々の服装も質素なものが増えてくる。そんなところで、偶然屋台を見つけた。
「屋台か、珍しい」
「この辺りではそうでもないわよ?」
屋台は飴玉を売っている。マルシュカは一秒ほどじっとそれを見つめて、それからため息をつくと静かに
「行きましょう」
と言った。
「試しに僕は一つ買ってみようと思う、君の分も買おうか?」
「な、何を言ってるの? 私に施しなんていらないわ」
「じゃあ、こうしよう。タダとは言わない。君には代わりに、本を紹介してもらうというのはどうだろう?」
言い訳を用意してみると、マルシュカはうぐぐと唸って
「……良いわ。貴方にまんまと乗せられることにするわね」
と、僕から飴玉を受け取る。そして嬉しそうにひっそりと微笑んで、頬張った。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
僕らは飴玉を舐めつつ昨日と同じ道を進む。マルシュカは僕よりも歩幅が小さいが、カツカツと速く歩く。歩く度に三つ編みが右へ左へ揺れる。
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古本屋に着くと、マルシュカが急に止まった。うっかり後ろからぶつかりそうになる。
彼女の後頭部越しに複数人の男たちが古本屋に出入りするのが見える。制服は着ていない、暗い色の平服で、片方は革の外套まで着ている。襟に留めた槍の形状のバッジが日を受けて一度光った。それは統一党員を示すバッジだ。
「え、何してるの? あれ」
彼らは店の奥から本を抱きかかえて出てきて、馬車の荷台に投げ捨てるように放っていく。昨日の老人店主は見えない。
僕も初めて見る光景だった。何人かが見物するように野次馬となって集まり始めている。
「マルシュカ、行くぞ」
僕は咄嗟にマルシュカの手を掴んだ。
「え、ちょっと……! 待ってよ」
「良いから、急ぐんだ」
僕はマルシュカを人混みから引っ張り出す。しばらく歩いて川辺の橋にまでやってきた。
「も、もう良い! 大丈夫、歩けるから!」
「え、ああ。ごめん」
「グリムって強引なところもあるのね、もっと紳士だと思ってたわ」
そこは河川の横で、ベンチが置いてあって、若い男女が語らっているのが見える。中央通りに近いからか、かなりきれいに整備されている。
「で、どうして私を引っ張ったの?」
「あれは統一党員だ。あんまり近くにいても良いことはない」
「でも制服を着てなかったわよ、あんなのおかしい。それにあのおじいさんは何もしていないのに」
「捕まったんだよ、ドルストフが」
「え?」
「昨日、僕も夕方に聞かされたばかりだ。彼はドルストフの本を店に置いてたから、きっと……」
「そんな、そんなことって酷すぎるわ」
マルシュカは力が抜けたように手近のベンチの一つに座った。
「ドルストフは私のお気に入りよ。彼は本当に憧れだったの。逮捕された彼はどうなるのかしら?」
「多分、殺される。法学の先生がこぼしていたが、最近の裁判所の有罪の7割は死刑なんだそうだ。有罪率は9割を超えている。政府の高官や軍の将校すら捕まって処刑されているらしい。このままでは今年の死刑執行数は100万を超えるらしい」
「なんてこと……」
マルシュカは頭を抱えた。
「あの本屋のお爺さんはどうなるのかな?」
「多分だけど捕まって、どこか収容所に入れられる。党は農業の集団化を推し進めてるから、多分そこに」
「あんまりよ」
川を一台の船が進んでいく。男が何か怒鳴った。うまく聞き取れなかったが、それで辺りはしんとなった。
マルシュカがゆっくりと小さく、僕にしか聞こえないくらいの声量で話し始めた。
「あのね、グリム。昔、私はいじめられてたの」
それは小さな告白だった。僕はただ黙って聞くことにした。
「小学校のとき、クラスでいじめがあったの。馬鹿な事はよしなさいって止めに入ったら、次のターゲットが私になった。下らないわよね、いじめだなんて」
マルシュカは川の方を見る。ゆっくりとした流れが太陽光を乱反射させている。
「いじめをするような奴、ちっとも怖くなんてないって思ってたんだけど、でもやっぱり悲しかった。本当に、悲しかったわ」
マルシュカは噛みしめるように反復する。
「でもそんな時に出会ったのがドルストフだったの。彼には励まされたわ。遠くにいるおじさんが、場所なんて関係なく、時間すら超えて、田舎にいた私を励ましてくれたの。文学って凄いわね。それで文学を始めたの。ちょっと書いてみたりしたのよ?」
「へえ、そいつは面白そうだ。今度読ませておくれよ」
「無理よ」
即答。そんなぁ……
「私、何度か出版社のコンクールに挑んだのだけれど、遂にこの間賞を取ったの」
「それは凄い」
「でも、取り下げられたわ。理由は文学界の弾圧。だからもう書いてないの、書いてたものも処分したわ。だから読ませたくても読ませてあげられないの」
マルシュカは力なく笑った。
「私ね、政治なんて知らないの。平和に暮らせればそれで良いの。でも、私が無関心な政府は、私には大層ご執心で。何を書くか、何を読むかまで縛り始めるのよ」
僕は何も言えなくなってしまった。
僕は統一党の主義は正しいと信じていた。彼らの言葉は時代の問題の本質をしっかり突いていたし、提示された解決方法も妥当に思われた。
けれども、眼の前の一人の少女が主義の前で悲しそうに笑っている。
「マルシュカ……」
「でもね勘違いしないでね。私はこんなんで腐ったりしないわ。今は別の形で遠くの誰かを励まそうと思うの」
「それは?」
「魔術よ。大学で研究してる魔術。うまく行けば副作用なしの麻酔や鎮痛剤として使えるかもって。それと語学もやってるの。いつか世界に出た時に言葉の壁を乗り越えて、誰かのお友達になるために」
「へえ、立派なものだ」
「……今言ったのは内緒にしておいて。あまり自分の考えを広めるのは好きでないの」
「もちろん」
マルシュカはこの小さな身体で、素朴に誰かの役に立とうと考えている。一朝一夕の思いつきではなく、何日も何年も磨かれた立派な志だ。
「『人生と誇り』、読んだよ」
「え、昨日の今日で?」
マルシュカは目を丸くした。
「ああ、禁書になるらしいからね。もう読み切った。帰ったら処分するつもりだ」
「そう、それが良いわね」
「でも面白かった。きっと僕の脳にはずっと残るよ」
「え? なにそれ?」
マルシュカが初めて笑った。少なくとも目が合う。明るい紅い瞳だ。
「それで、感想は?」
「かっこよかった、生き様が。強いなって。でも悲しかったよ、主人公がずっと一人だったから」
「そうね、悲しいわね。でもそんな主人公に共感したでしょう?」
「まあ、したね」
「私もそう。彼に共感した。私はね、時空を超えて、彼と友達になったって勝手に思ってるの」
「彼は創作上の人物だ」
「その通り。でも、良いじゃない。過去の実在した偉人でも、誰かの創作上の人物だろうと私は勝手に友達になるわ」
「面白い考え方をするね」
「まあね。きっと友達がいないから、勝手にそうやって共感する相手を求めているのかも知れないわね」
と彼女は自嘲する。それから勢いよく立ち上がると、僕の方に振り向いて
「家に帰ったら私も本を捨てるわ。今日はありがとう。本屋は残念だけれど、また会いましょう、グリム。私、貴方の事好きよ」
「え?」
「友人として」
「ああ、そうだよね、そうだとも。わかっていたさ!」
ちょっと悲しかった。
「これからもよろしくね!」
でも嬉しかった。